|
〈神社の沿革〉
当社は、昭和十八年五月十二日京都伏見区に鎮座の旧官幣大社伏見稲荷神社の御分霊を勧請して創建せられた。
白砂青松の保養地であった鵠沼海岸は、大正十二年九月一日の関東大震災後、とりわけ昭和四年小田急電鉄が開通してから、鵠沼海岸駅前を中心に住宅地として、急速に町づくりが進むに及び、地域住民の要望により新しく鎮守社を創建する事となり、御祭神として、庶民に最も親しまれ、広く信仰の集まる稲荷大神をお祀りしたのである。以来県内はもとより関東一円より、四季を通じて参拝者絶えず、湘南のお稲荷さんとして親しまれている。
平成6年4月、御鎮座五十年記念事業として計画された御社殿の改築工事が、多くの氏子崇敬者の御芳志にあづかり竣工を迎え、荘厳な神社殿が完成した。
〈御本社の由来〉
御本社伏見稲荷大社は、伝承によれば奈良朝和銅四年(711)2月初午の日に、深草の里の長者秦伊呂具公が勅命により、三柱の神を伊奈利山三ヶ峰の平処に祀ったのが始まりと云う。「伊奈利」又は「稲生」と表記された御神号に、「稲荷」の文字か広く使われるようになったのは、稲束を荷った老翁の姿を神像として礼拝することが普及したことによるものと考えられる。社記には「衣食住ノ大祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」とあり、稲荷山が古くから民衆の信仰の“お山”であったことは、平安朝の女流日記随筆等によって偲ぶことができる。
また、朝廷より神威の盛大な神々に対して神階が贈られて格式が高められたが、稲荷大神に対しても、天長四年(827)に始めて「従五位下」を授けられて以降数次の贈位があり、、ついに天慶五年(942)「正一位」に叙せられた。今も「正一位稲荷大明神」と奉称されているのはその名残である。創建当初伊奈利三ヶ峰に下社(宇迦之御魂大社)、中社(佐田彦大社)、上社(大宮能売大社)の三座が祀られたが、後に田中社、四大神社を併せて奉祀して、五社大明神と奉称されるようになった。
現在の御本殿は、明応時代の建造で稲荷造りと称せられ、天正十七年(1589)豊臣秀吉により修理されたものである。
〈信仰の変遷〉
稲荷信仰の根源は、農耕神崇拝であって、生命の祖神、衣食住の守護神として、平安初期の人々の生活に深く根付いたが、仏教が伝来して神仏習合の思想が芽生え、稲荷神社が東寺の鎮守神と仰がれるに及び、稲荷信仰は飛躍的に庶民の間に伝播して、初午祭は年中行事として国内に普及するに至った。
中世から近世にかけて、人々の生活を豊かにするため、物資の生産流通が盛んになり商工業が発達するに及び、稲荷大神は殖産興業の守護神として崇敬され、人々は生業繁昌、福徳豊楽を祈念するために、個々の屋敷神として、町の守護神として、稲荷大神の神霊を勧請してお祀りするようになった。
現在、全国に稲荷神社を奉斎する神社の数は、三万二千社(全国社数の三分の一)と云われ、生業(商売)の繁栄、福徳円満、交通安全等々限りない願いをこめて、稲荷大神への信仰は益々深く高くなるばかりである。
稲荷大神のそれぞれに備え給う御神徳は、混然一体となって。信じる人々に反応して、霊妙不可思議に隠然と輝き給い、大前には四季を通じて参拝者が絶えないのである。
|